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    November 01

    日本人の特殊性(34)自殺の美学

    腹切り、神風特攻、心中の美化、戦艦大和の自殺行為、これらはすべて自殺もしくは自決の美学ではないかと思うのです。キリスト教でもイスラム教でも自殺を認めている宗教はないはずなのですが、この日本人の特殊性は武士道から来ることなのかも知れません。

    死の美学、死ぬために生きる、こういう観念は日本人特有なのではないでしょうか。勝つ負けるとは関係なくこの価値観が日本人の心にあるということは恐いことだと思います。戦えばとことん最後まで戦い抜く、無条件降伏まで戦い抜いたのはつい60年前にあったことです。

    神風特攻の当事者は敵に対して一矢報いるという純粋な精神だったのでしょう。冷静に考えればそれによって戦況が変わるとは言えないものだったろうに、止むに止まれず望んで特攻に志願したのだと思います。生きて辱を曝すより、名誉の死を選ぶ、そういう精神性に思えます。

    ジハードと称して異教徒の攻撃に対して立ち向かうイスラム教徒の戦いにも似たものが見られますが、それは美学というよりも天国に行くための手段のように見えます。それでも価値のある死に方をしたいという願望においては日本人の神風特攻と共通するものをみるような気がします。

    勝ち目があろうがなかろうが決死の覚悟ですから、これに立ち向かう平常心の敵兵の怖れは非常に大きなものだろうと想像されます。美学ですから、つまり格好がいい、これに惹かれるというのは日本人の国民性ではないかと思います。そこに純粋性、潔癖性を見出すのではないでしょうか。

    ちょっと距離を置けば狂信にも見えるこの心の動きですが、日本人の心の底に強く残っているのではないかと思えます。絶叫する首相への人気もその表れかも知れません。損得で考えればアジアの中で孤立する日本というのがいいはずがありません。選挙結果を見て、損得ではない純粋性を感じるのが日本国民なのかも知れないと思いました。

    自民党の300議席という結果を見て、熱狂した自分たちを見直しているというのが今の姿ではないでしょうか。政治が生活感覚からはるかに離れた存在になったというのが今回の選挙結果ではないかと思っています。政治家というのは特別な仕事で自分たちの生活からは離れた存在だと思う感覚が人気投票という結果を生んだのではないかとさえ思っています。

    世代交代やジェネレーション・ギャップがあると言いながらも、日本人の国民性というのは案外持続しているような気もします。損得よりも美学、それが破滅につながろうと格好がいい方がいい。戦艦大和の自殺行為は敵にむざむざと傑作戦艦を渡したくないという精神的抵抗のようにも思えます。当時の海軍本部は負け戦は当然知っていたはずですから。

    心中というのは江戸時代にもてはやされたものですが、究極の恋愛の姿として格好がよかったのでしょう。歌舞伎の影響とは言え、実際に心中を試みた人たちがいるというのですから驚きです。切腹、腹切りは名誉を保った自決ですから、名誉を重んじられたものと言えるでしょう。罪人に与えられる処刑方法の首切りとは決定的に違います。

    さまざまな価値観のある国際化の時代、日本人のこの潔癖で純粋を好むという傾向は少し恐い気がします。狂信との差があまりにもないからでしょうか。外国人の目には神秘に映るかも知れませんが、それだけ理解できない精神世界のことと言えるのではないかと思います。

    日本人だけが自殺が多いとは思いませんが、物質的にもっと辛い人たちはイスラム教徒ではないかと思えるのに自殺者はそれほど多くはないようです。イスラム教徒は自殺を禁じられているということはありますが、それがどこまで効果があるのかは疑問です。
    October 30

    日本人の特殊性(33)日本人男性って

    先日、秘書のアツーサに言われたことがあります。「日本人の男性よりイラン人の男性の方がいい」だって・・・ これにはカチンと来ましたが、冷静に考えると日本人男性って女性に誇れるような長所ってないみたいで・・・(汗) 今日は秘書の意見に同意してしまいました。

    イラン人男性の方が家庭を大事にするし、女性に対する扱いも優しいし、子供と接する時間も長い・・・ どうにも日本人男性の出る幕がなさそうです。男性同士の比較ではありませんよ、女性、主婦からみた場合どうかってことなんですけどね。

    つまり、日本人男性というのは女性や家族のためにというよりは、日本の男性には100%ベストを尽くして働けるという環境が揃えられているということなのではないかと思われるのです。天然資源のない国、日本人労働者の宿命のようにも思えます。

    それでも私も日本男児の端くれ、どこかに日本人男性の長所ってないのかと一生懸命考えたのです。しかし残念ながら、イラン人秘書を説得できるような長所はどこにもありませんでした。つまり、日本というのは、それだけ男性社会であり、男性が働きやすいようなシステム、価値観が確立されているのだと改めて思いました。

    私は悔しさ紛れに秘書に言いました、日本には「亭主、元気で留守がいい」というような言い回しもあるよってね。要するに夫は一生懸命稼いで家庭のためにお金を運んでくれればいいというものです。この感覚はイラン人の彼女には理解できないようでした。

    国際人「えるだま」としてはなんとか逆襲してみたいところです。ゴジラ映画だって逆襲がキャッチコピーですもの・・・(関係ないか) そして、私が最後に言ったことで、彼女の表情が変わりました。さあ、謎解きが好きな方はここで読むのを止めて考えてみてくださいな。いったい私は何を言ったのでしょう。^^



    私が言ったことは、「日本の亭主のほとんどは給料の全額を奥様に渡し、自分では小遣いを奥様にお願いしないといけない」。これです、多分ほとんどの日本人家庭がこのシステムではないでしょうか・・・ 私のところは結婚してからもこのシステムは採用しておりませんけど。

    すると彼女の顔色が変わりました。そうなんです、家庭の経費などを管理するのは旦那の役割りというのが世界では常識なんです。日本のシステムが特殊なんですね。奥様に家計一切を取り仕切るという権限を与えられるというのは多分日本人の特殊性と言ってもいいでしょう。

    欧米では財布の紐の管理は男性が普通です。考えてみれば稼いで来た人が管理するというのは当然に思えますね。しかし、日本の場合は完全に違っています。稼ぐのは亭主、管理するのは奥様、そういうのが一般的なようです。(私のところが違うのでどうしても一般論になってしまいます、私は自分の給料を一回も家内に渡したことがありません。汗)

    日本の亭主族のなかには100円亭主ってのもあってね・・・ などなど日本の亭主族の悲哀を笑い話にした後、私は言いました。「私は女性にとっての日本人男性のよさというものをみつけることはできなかったけど、間接的に今の日本の生活水準を作り上げたのはそういう日本人男性たちなんだということは言える。イラン人男性がいいというということは、今のイランの生活水準で満足しているということになるけど、それでもいいの?この現状はイラン人男性が作り出したものじゃないの?」

    そう訊かれても、明快な答えってないですよね。できればイラン人のように時間をたっぷり使い、家族と一緒に過ごし、日本人のように何でも手に入る国にいて、十分な給料が得られる・・・ そんな生活が望ましいのでしょうけど、なかなかそうはいかないもののようです。
    October 28

    日本人の特殊性(32)おもいやり(3)

    「おもいやり」というのは相手の立場になって親身に考え、その上で適切な対応をとるというものだと思います。極端な場合、友人が誰かの悪口をさんざん言っていても、実はその人を好きだからなんてケースもあるでしょう。言葉だけを真に受けて対応したら、まったく反対の対応になってしまうかも知れません。

    日本人の場合、特にこの相手の立場になって考えるということが習慣になっているようです。多くの外国人と接してきましたが、彼らはとても親切で困ったことは喜んで助けてくれます。しかし多くの経験から感じることですが、彼らはこちらが何を言いたいのかという点に関心が集中しているように思われます。

    日本人の場合、直接お願いしたり、頼むことをためらう性格があるようで、何かを話しながら相手に本心を察してもらうというようなこともありますね。こういうやりとりは私が外国人だからそうなのでしょうけど、外国にいてはあまり経験していません。

    日本人同士の「おもいやり」をみていて当惑することがあります。的外れな「おもいやり」をしてしまうことってありますよね。考え過ぎて「おもいやり」のつもりで言ったものが悪く取られたり、それを修正しようとしてますますこじれたりして・・・ こういうのは日本人同士でよくあることのように思えます。「おもいやり」の弊害とも言えるでしょうか。リアルタイムで進むチャットなどではこのすれ違いをよく経験したものです。

    最近の若い人たちの会話や文章表現をみていると普通の言い回し少なくて、断定を極力避けているように見受けられます。これも他人の感情を害することのないようにという「おもいやり」の一種の表れなのでしょう。どこの国の人でもあるでしょうが、いつでも嫌われたくないと神経を使うのが日本の特徴のように思われます。

    「おもいやり」の反対にあるのは「自分の気持ちを察してほしい」というのがあると思います。いろいろやりとりの後、相手が察してくれないと、「おもいやり」がないという批難をしてしまうのではないでしょうか。この辺りは妙に日本人という感じがします。

    私のような鈍感な人間では、しょっちゅう「おもいやり」がないという批難を受けてしまいかねません。批難されてから、そういうものなのかなんて分かるというのではちょっと辛いですね。この辺りは家内に聞いてみないとね・・・ んー、耳が痛くなりそうだ。(苦笑)

    日本人の特殊性としては、同じ言語を使い、ニュアンスを大切にするものだから、ことさら察するということが重要視されるような気がします。言い回しにおいて末尾がこれほど柔軟でなければそこまでデリケートにならずに済んだかも知れないと思ったりします。

    「分かった」
    「分かったよ」
    「分かったってば」
    「分かった、分かった」

    これだけの表現で感情まで伝わってしまいますものね。「はい」と「はいはい」でも大分違いますものね。返事は一回でよろしいってね。(笑) 実際の会話ではそこにトーンまで加わりますから、人間の付き合いというのは楽じゃないですね。(苦笑)

    日本人の特殊性(32)おもいやり(2)

    前置きが、大分長くなりましたが、本題はこれからでして、いよいよ「おもいやり」に触れて行きたいと思います。お気づきになられたと思いますが、この「おもいやり」も表現方法は違いますが、敬語、謙譲語、丁寧語のような意味を持っており、同様に「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」というところから発しているようにも思われるのです。

    これは「おもいやり」を美徳と考えるものとは違います。どう思われるかということを意識した「おもいやり」のポーズということなのです。本当の「おもいやり」ならいいのですが、果たして形式に陥った「おもいやり」、他人の目を意識した「おもいやり」ではないと言い切れるでしょうか?

    えっと、前回の問題提起は、日本人の美徳のひとつである「「おもいやり」」に対しての批判ではなく、「おもいやり」が日本とは違う文化的、歴史的背景を持つ外国の国の人々に理解可能かということを考えるためのものです。ヨーロッパ人の日本人とは反対の考え方も紹介いたしましたが、果たして外国人に日本人の「おもいやり」という考え方が理解されるでしょうか?

    誤解のないために付け加えますが、外国人に全然「おもいやり」がないとか、日本人の全員に「おもいやり」が備わっているということを申し上げている訳ではありません。日本人の「おもいやり」と申し上げながらも、自己主張が強く自分勝手な行動が目立つ外国、特に中近東のイランの国民性を念頭に置いていることは間違いありません。

    イラン人の国民性を見ていると、アラビアのロレンスという映画が思い出されます。外部では植民地化が進む中、国の中では民族紛争で明け暮れている。そんな中で民族の団結、協調を進めるのは容易なことではないはずです。中近東に来てみて、もう一度見たくなった映画がアラビアのロレンスです。

    身内や、親しい人に対する「おもいやり」には、日本人と外国人でそれほどの違いはないと思います。ですから、問題はそれ以上の対象に対する「おもいやり」、配慮だと思います。日本でも、知っている人がいるかいないかで、役所の対応がかなり違うということがありますが、多くの発展途上国ではそれ以上の問題をよく見かけます。書類がいつまでも動かなかったりですね・・・・ どこかに垣根があって、その広さの問題かもしれません。

    日本人って心のどこかに人間だから考えることは一緒って楽観していませんか?そりゃあ、肉親の死去で悲しまないってことはないですから、そういう基本的なところではもちろん同じです。ただ、海外においては、日常生活、仕事の進め方においてはかなりの相違に直面することが多くあります。今回は本題からは少し外れますが、その相違について触れてみたいと思います。

    まず、思考方法ですが、日本人は螺旋型、西欧人は直線型と言われています。日本人は、天気のことから始まって、じわじわと本題に接近しますよね。決して天気に興味がある訳ではないのです。(笑) 相手の反応を探りながら、本題に向かうので、螺旋型って呼ばれるのでしょう。

    一方、西欧人は、単刀直入が多いようです。もちろん、「ご機嫌いかがですか?」という挨拶の後ではありますけどもね。

    この原因は、やはり島国と大陸という差から来ているものと思われます。言語も民族も違う大陸型では、微妙なニュアンスを伝えるよりも、目的をはっきりと伝えることが優先するからでしょう。微妙な表現を使っても、母国語の違う相手がそれを理解するとは思えませんからね。

    それから、文章ですが、日本語の文章は書き手主体の文章と言われています。書き手が好きに書いて、読み手はそれを理解しようとする。これは書き手にとっては楽なものです。西欧人の文章は、読み手主体の文章と言われています。分かり易くないと、いい文書ではないのです。

    日本人の文書をみると、拝啓から始まって、時候の挨拶、相手の健勝や、会社の清栄に触れて、それから「さて」で始まる前段があって、「つきましては」からが本文になりますね。そうして、最後にまた挨拶があって・・・・・・・やれやれという感じです。

    一方、西欧人の文書となると、挨拶もなにもなく、いきなり本文になります。日本人にはいささか抵抗がありますが、簡潔明瞭、余分なものは何にもありません。親しい間での、またお会いしましょうとかは、もちろんありますが、友人関係でもないと、本文は極めてあっさりです。

    西欧人が、直訳した日本語の文章をみたら、さぞかし当惑することでしょう。なんで、そんなこと書いているのかなってね。季節のことはいいから、なんなの?会社は無事ですよ。説明が長いなぁ・・何を言いたいの?・・・ってな具合でしょう。(笑)

    という具合に相当感性も習慣も違うものなのです。根本の違いを理解して進めなければいけないのが、日本から外国に対するアプローチだと思います。ちょっと、脇道に逸れましたが、少し触れておきたかったことです。

    日本人の特殊性(32)おもいやり(1)

    日本人の代表的な美徳のひとつに「おもいやり」を挙げることは多いですね。意見百出、議論を呼ぶでしょうが、あえて日本人の特徴を分析する挑戦をしてみたいと思います。

    最初に私の言いたいことを明確にしましょう。「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」ということです。反論もあるでしょう。

    例えば、自由に職場の執務空間を選べるとしたらどうでしょう?日本では部長クラス以上でないと秘書付きの個室は提供されないのが普通ですね。ところが一般にこれを望むかと言うとそうでもなく、希望を聞くと日本人の多くは、20人でも50人でも、机を並べた執務環境を選びます。ヨーロッパ人の目からは信じられないことのようで、仕事に集中もできないし、電話も不自由、プライバシーもない、とても仕事できる環境ではないと言うでしょう。

    なぜ、日本人はそのように仕事をやり難い環境をあえて選択するのでしょうか?仲間意識もあるでしょうが、他人が何をしているか知りたいからだと思います。そうすると同時に自分も見られていることを強く意識することになりますね。この形態は管理職からすると非常に部下の管理がやりやすいものだと思われます。自分で直接みなくても、部下が自ら監視し合ってくれている訳ですからね。しかし、こういう環境は絶対に窮屈ですから、5時過ぎに飲み屋に行って憂さ晴らしをするということになる訳です。

    ヨーロッパ流では、その窮屈さがないですから、「5時から男」も存在しないことになります。そして、飽くまでも成果重視の個人プレーになって行きます。このやり方では、ミーティングによる相互の情報交換は非常に大事であることは言うまでもないでしょう。

    前回は「おもいやり」というタイトルから離れているような印象を与えたかも知れませんが、「おもいやり」という美徳が生まれる背景から分析しないと始まらないと考えたからです。今回も、その「おもいやり」に近づくよりも、むしろ前回の「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」という理由の方を考えてみたいと思います。

    前回書いたように、日本人はなぜ窮屈な仕事環境を自ら選択するのでしょうか?「他人が何をしているか知りたい」という理由で十分なのでしょうか?「旅は道連れ、世は情け」、「みんなで渡れば怖くない」、この辺りが日本人の感性を言い表しているようにも思われます。

    南米では、まったく反対のことを聞きました。「気の合わない人と旅するより、一人がいい。」 どうも西欧人と日本人とは正反対の感性があるようです。日本人には、独立心が薄いのでしょうか?そうかも知れませんが、逆にチームワークという点において日本人は比類ない能力を持つと考えられます。

    戦争を肯定する気はありませんが、日露戦争、太平洋戦争でも日本軍の優秀さは群を抜いたものだと思われます。軍隊は究極の能率、能力を求めるはずですからね。未だに、それらの戦争での優秀さがあるが故に日本国が一目置かれているという国際情勢もあるくらいです。

    その原点はやはり島国かも知れません。狭い国土の中、個人個人が好きなことをやっていたのでは収拾がつかなくなります。そこで、「村八分」と言うような強い手段で、連帯、協調の障害となるような行動を戒めたと思われます。

    「村八分」を避けるためには、周囲で何が起きているか知らなければなりませんから、情報収集も必要でしょう。どうも、この辺りから「他人が何をしているか知りたい」という動機が生まれて来ているのかも知れません。

    現在、教育界では個性を伸ばすなんてテーマがあるようですが、従来の日本は、逆の動きをしていたように思われてなりません。「出る杭は打たれる」とか、同じ仲間、同種であることが美徳とされて来たという昔の日本人の考え方とは反対でもあり、取って付けたもののような気がします。

    ちっともテーマである「おもいやり」に近づかないですね。(苦笑) 今回は、引き続き「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」という話から出られないかも知れません。私は、監視し合うが故に、敬語等が生まれ発展したのではないかと思っています。

    長幼の序というのは古くからの日本人(アジア人)の考え方ですね、そして、役職の高い人も序列では上位になります。他の人が見ているから、こういう形式が生まれたとも考えられます。誰も見ていなければ、当事者同士の関係ですみますからね。

    敬語、謙譲語、丁寧語、本来人間関係を円滑にするために発達したものと思われますが、こういうものは形式主義に陥りやすいものです。元来尊敬などは、自然に湧き出るものだという気がしますが、年長、役職の上位などで、形式的に使わなければならないというように変化して来たのだと思われます。

    見方を変えれば、敬語、謙譲語、丁寧語は、心からであるか、形式的なのか、これを上手く隠蔽したものとも考えられます。長幼の序がなければ、米国などで一部の家庭で行われている両親を名前(ファースト・ネーム)で呼ぶことにも抵抗がないでしょう。日本では、体育会系では殊更に長幼の序を大切にしているように思われます。ここで言いたいのはその是非ではありません、念のため。

    最近の若い人たちの仲間言葉は、敬語などの習慣に対する抵抗にも見えます。共通の言葉で仲間意識を持ち、形式的な表現に陥っている年長者への批判にも感じられます。私は、ある若い方から素直に仲間言葉で話しをされたことがありますが、ありがたく受け止めるべきなのでしょうが、通じないのでは困ったものだという経験を持っています。(汗)
    October 26

    日本人の特殊性(31)国際会議

    今回のお話は日本人だけでなく中国人などの東アジア人に共通した性格かも知れません。国際会議でヨーロッパ代表が議題や議論で即断即決しているのに比較して、東アジア代表は決してそこでは意思表明をしないのです。質問はしますが、結論めいたことは本国に問い合わせてからとか上司に伺いを立ててからということになります。

    東アジアの人間から見ればヨーロッパ諸国代表がどうしてそこまでの権限を持って即断できるのか不思議な感じです。逆にヨーロッパ側から見れば、即断即決できる人間が出席しないアジア諸国というのはどうなっているのだろうという印象を持つことと思います。

    私は事務局経験があるので、その点をヨーロッパ代表に直接訊いたことがあります。ヨーロッパの代表は所属する組織によっても違いますが、2000万円くらいまでは代表の意思で即断即決できるようです。少なくとも会議場で本国政府に伺いを立ててから回答するなんて口が裂けても言わない感じです。代表で会議に臨んでいるのですから、このくらいの気構えは必要だろうと思いますけどね。

    ということで国際会議で東アジアの代表が自分の席から後ろを振り向いて、いろいろごそごそやっている姿は珍しくありません。担当者らしき人が会議場から去り、また現れて代表に耳打ちしているなんて姿、日本国内の会議でも見られますね。まずいことを発言した場合など小さな紙切れでメモが手渡されるなんて光景は洋の東西を問いませんが。(笑)

    ところで、私の僻み根性かも知れないのですが、英語の表現で「私は○○人です」というものがありますが、非常にデリケートな話で恐縮なのですが、日本人の場合、”I am Japanese”が普通で、米国人の場合は、”I am an American”というのが普通なんです。”Japanese”と”Chinese”というのは”Uncountable”(数えられない名詞)なのかよと僻んでしまいます。

    国際会議での東アジア人のやっていることをみると、これは私の僻みではなくて、当を得ているんじゃないかと悲しく思えて来ます。ヨーロッパ諸国の代表から見れば、東アジアの代表に誰が出てきても同じという印象があるのではないでしょうか。個人の力ではなく、組織の代表であるという色彩を強く持っているのが東アジアの特色であることは否定できないでしょう。

    ヨーロッパ諸国の場合、個人の裁量が大きいですから、良かれ悪しかれ大きな影響があります。東アジアの場合は組織としての結論という意味があるのでコロコロと態度が変わることはないでしょう。しかし、会議の席上で何も決められないというのはちょっと大人げないような気がします。

    私は個人的にはアジアの調和、協調を大切にするという習慣、価値観が大好きです。ですから、会議がまどろっこしいのはその弊害というように考えれば、仕方がないと考えてもいいのかも知れません。話がまとまらないからと言って、直ぐに戦争行為に走るような文化は肯定したくありません。ヨーロッパ諸国は主張はするけども、相手の意見も聞くという大変素晴らしい習慣・文化を持っています。
    October 24

    日本人の特殊性(30):外食産業

    日本に外食産業が根付いたのはほんの20年くらい前からのことではないでしょうか。今でもイランやルーマニアでは外食の習慣はないようです。イランの場合、同じものを食べてどうして2倍も3倍もするお金を払わなければいけないのかという素朴な疑問が優勢のようです。イランの場合、レストランは料理をしないで食事ができるからいいだろうというレストラン側の姿勢も感じられます。

    ルーマニアではまだ外食の習慣があまりないようでした。こちらの場合、たくさんあるイタリアレストランでとても美味しい料理がいただけるのですが、なぜかお客さんが少ないのです。外食するとお金がかかるということが大きな理由のようです。生活に余裕がないということなのでしょう。

    ラテン人の南米では貧富とかには関係なく外食産業は根付いています。もちろん昼食などでは庶民的なレストランにしか行きませんけど、それでも弁当を持参する人は少数派のようです。面白いのは高級そうなレストランよりもファーストフードの方が値段が高く、それでも人気があるということです。多分目新しいからじゃないかと思いましたけどね。

    西欧の先進国では外食産業は大繁盛ですね。屋外に設置されたレストラン、カフェには常時お客さんがいるようです。パリでセーヌ川の中に船を浮かべたバーで、ノートルダム寺院を見ながら時間を過ごすなんてなかなか楽しいものです。

    先進国でもないのに外食産業が盛んなのはなんと言ってもバンコクでしょう。歩道には多くの屋台が並び、レストランもたくさんあります。バンコクに住むタイ人の家にはキッチンのないアパートも多いといいます。一人身の場合、アパートで料理を作るよりも屋台で食事をした方が安いというのですから無理からぬことでしょう。

    さて、閑話休題、日本人の特殊性に戻りますが、日本の場合、バブル経済期そしてその後といろいろな段階を経てきているので単純には語れないと思います。昼食には定食屋か蕎麦屋、あるいはラーメン屋というのが定番ですが、ファミリーレストランが竹の子のように出現した時期もありましたね。

    駅蕎麦というのは日本人の昼食時間の短縮には一番いいようです。営業で飛び回るサラリーマンや学生をよく見かけます。これは日本人特有の文化でしょうか。昼食は軽く、夕食が重たいという日本人の習慣からもっとも合理的なものかも知れません。世界を見渡すと昼食が一番重いというのが一般的だと思いますから、日本が少し特殊なようです。

    そういえば食事の時間帯についても日本人はちょっと外国人とは違っています。日本人の夕食は7時か8時頃でしょうが、外国では9時か10時というのが一般的です。ヨーロッパ、南米などでは、8時頃レストランで食事をしているのは日本人観光客くらいなものです。

    東アジアや東南アジアは日本人の習慣に近いので、時間差がないのが嬉しいところです。午後6時くらいから夕食にありつけますからね。タイ人の場合は、少しの量を何回も食べるというのがあるようで、だからでしょう、常時レストランが開いています。

    何がテーマだか分からなくなりましたが、日本人の昼食は軽く、夕食は早い時間ということが特殊性だと言えるでしょうか。アルコールがないと食事を10分くらいで切り上げてしまうのも日本人の特徴かも知れません。それになぜか罪悪感があるらしく昼からアルコールを飲まないですね。南米に行ったら事情は違います。飲みたいときに飲めばいいと思うのですが、日本の場合仕事中はちょっといけませんね。でも、休日までそのルールを当てはめる必要はないと思っています。

    外食産業ということでは、日本にはありとあらゆるレストランがあるのではないでしょうか。東京では人口が集中していますから、どんな種類のレストランでも営業できるのでしょう。そしてそれを支えているのが外食の習慣と言えるのではないでしょうか。もっとも夜は5時から男の出番ということもあるので、建前と本音の国、日本ならではの習慣・文化の一端なのかも知れません。
    October 22

    日本人の特殊性(29):女性の教育

    今回は少し難しい話題です。女性の教育はどうあるべきか、こんな難しいテーマはとても荷が重いですね。アフガニスタンのタリバーンの女性教育に関する報道はショッキングでした。女性は家を守り、子供を育てるのがもって生まれた宿命とばかり、まともな教育は受けさせず、完全に男性の持ち物のように扱われていました。このような性差別問題を誤解のないようにとジェンダーという言葉が使われ始めました。セックスという単語ではちょっと別な方面を意識してしまいそうなので、丁度いい言葉なのでしょう。女性の社会的役割と訳すべきでしょうか。

    日本の昔は母系制度だったと習った記憶があります。誰が父親か分からないというのも面白いですが、一番確かな家系の制度と言えるのかも知れません。その頃中国では女性は完全に歴史の闇の中です。名前すら残されていないのです。歴史は社会そのものですから、この意味では女性は完全に社会的地位がなかったものと考えられます。もっとも陰で糸を引いていたとも考えられますが、春秋戦国時代の中国では戦乱に次ぐ戦乱ですから女性の出る幕はなかったかも知れません。

    古く女性として名前が残っているのはクレオパトラでしょうか。エジプトの女王ですから、社会的地位はまさに最高峰です。それ以外で有名なのはソクラテスの奥様でしょうか、悪妻で有名ですね。世の中が戦乱に明け暮れている時代には女性の歴史に登場する機会はまずないでしょう。アラビアのロレンスでも女性の登場人物はありませんでした。歴史を見る限り、女性の社会的地位は最近になってようやく認められた感があります。逆に言えば、女性の社会的地位が語れるようになった現代は昔に比べて戦争が少なくなったということができるでしょう。我々は平和ぼけとも言われますが、それでも平和な時代を喜ぶべきなのでしょう。

    現代の社会において女性の社会的役割、地位、教育が遅れていると思われるのがイスラム社会です。アフガニスタンのイスラム原理主義団体タリバーンのやり方は極端ではありましたが、忠実にイスラムの考え方を実現するとそういう姿になるかも知れないと思わせるものです。いい加減なイスラム教で有名なシーア派のイラン人でも究極の姿としてはそうであろうと考えているようです。ただそれを実際に受け入れるかどうかは別問題です。イランでは現代人に当てはめるのは現実的ではないと考えているようです。

    メジャーであるイスラム教スンニ派の国々の中で私はマレイシアしか知りませんが、マレイシアは複合民族国家なのでちょっと純粋なイスラム教の教えがモディファイされている可能性があるように思います。イスラム教シーア派のイラン人は、男女の性差が明確になる頃から分離教育で育ちます。そして大学では共学になるという不思議な制度を持っています。男女共学がいいか悪いかという問題は難しいですが、私は共学が望ましいと思っています。異性を理解するのも教育の一環ではないかと考えるからです。

    女性の社会的地位が男性と完全に同等であることが正しいことかどうかは熟慮しなければいけないことだと思いますが、歴史的にみれば同等であることが望ましいように思われます。物理的な差異は大したことはないでしょう。今はもう肉体労働の時代ではありませんからね。女性の特権である出産に関係した保障さえあれば、他はもうほとんど男女の差はないものでしょう。

    私が世界の国々で見てきたことから言えば、男女平等という権利を主張するやり方よりも、それぞれの個性に応じた生き方が選べるというのが最適なのではないかと思うようになりました。数学や物理が好きでない女性に無理やりそれらの勉強を押し付けるのもどうかと思うし、家に入って子育て、家事に専念したいと言う希望の女性にはその道を開いて上げればいいと思うのです。専業主婦は職業としては認知されていないかも知れませんが、立派な職業といえる性格のものと思います。逆に家事が苦手な人は外で働くのが社会のためというものでしょう。

    みんなが同じになるのではなくて、それぞれの個性に合わせて自分の人生を選べるような社会であるべきものと思います。男性だって生き方を選べばいいでしょう。ただ安易に過ごせばいいということでないので、この辺りが教育者の出番でしょうか。より満足でき幸せな生き方を追求するような人間に教育してもらいたいものです。それにはまず教師自身が尊敬され堂々と生きてもらわないといけませんね。

    欧米の考え方、歴史などを植えつけられてしまったのが日本人の特殊性だと思っています。戦前戦後では文化的な断絶が生じたと思っています。ということで、私の目は先進国のフェミニズムに向いているものではなく、むしろかつて日本にあったかもしれないアジア的な考え方や、異質な文化に見えるイスラム教の世界での女性の人権をみています。

    10数億人と言われるイスラム教徒ですが、基本的な考えに間違えがあったら、これほどの信者を獲得できるものだろうかという素朴な疑問があります。そしてそこにおける女性の人権、社会的役割について観察をしたということです。欧米などの先進国の人権の考え方、フェミニズムの台頭、それがどこまで正しいのかは私には分かりませんが、一方の世界では未だに非常に極端な考えが支配しているところもあるということです。それを文化の未発達と決断していいかどうか私には分からないし、欧米流の物差しを当てはめることがいいのかどうかも難しそうです。

    イランでは女性の社会的活動が完全に制限されているかというとそうでもなく、現在の副大統領であり環境局長官は女性です。能力のある人間なら男女の区別なく社会的地位を得られるという面もあるようです。環境分野は利権に疎いので女性が抜擢されるのかも知れません。むしろ利権がらみのポストを開放したらいいと思いますけどね。

    今や世界はインターネットで交信できるようになりました。欧米流の考え方、民主主義はイラン政府は敵視していますが、庶民の間には解放的な文化としてどんどん情報が流れ込んでいます。この点はイラクとイランでは大いに事情が違っていると言えます。ハリウッド映画のの話題作も米国での封切り後直ぐに海賊版が出回っているし、コンピュータのソフトウエアも米国の著作権はまったく考慮されないので二束三文の値段で出回っています。

    これだけ情報が得られる状況にありながら、イラン人がイスラム教の教えに基づいて、あるいは強制されてとも言えるのですが、さまざまな生活上の不自由を甘受しているということが不思議に思えます。人権か宗教かということなのでしょうか、それでもイスラム教を捨てるという人はいないようです。もっとも国教なので捨てる訳にもいかず、そのようなことを表明したらどんな罰が待っているか分かりませんけどね。
    October 20

    日本人の特殊性(28):セックス産業

    何でも自由に思われそうな米国ですが、ことセックスに関しては非常に保守的な面があります。未成年から徹底的に隔離しようとする規制は徹底しています。クリスチャンの精神性からだと思います。南米でもポルノ誌はどこでも売られているものの、ちゃんと表紙が見えないようにしてあります。日本ではこの点ルーズな面があるのは否めないことです。

    文化的に進んでいると思われるヨーロッパでは、ホモ・レズがその権利を主張してパレードを行い、デモンストレーションをやっていたことがありました。私がドイツのケルンを仕事で訪れていたときにちょうど出くわしました。異様なテーマではありますが、お祭り騒ぎのような雰囲気で妙に明るいものでした。大聖堂で有名なケルンですが、その町には「おとなのおもちゃ」みたいな店が軒を連ねていたりして、なんとも奇妙に思えたものです。

    ドイツにはあちこちの国から出稼ぎに来ているので、セックス産業も盛んなのでしょう。厳格なドイツ人気質の別な面を見るような気がしました。非合法なのかどうかは分かりませんがベルリンの街中にも怪しげな店がありました。好奇心旺盛な私は、ドアーにある小さな窓から「入れるか?」と聞いてみたものです。まるでマフィアのアジトに入るようなぞくぞくする気分でしたが、あっさりと中に入れてもらえました。でも中はなんてことのない、ハリウッド映画にあるようなスネーク・ショーをやっているポルノ・バーでした。この程度ならアメリカ大陸ではどこにでもある代物です。ベルリン滞在中に飲みに行った店では、モロッコ人、ポーランド人のダンサーやら娼婦を見かけました。本当に出稼ぎが多いのだと思ったし、簡単に稼げる商売としてセックス産業があるということを確認せざるを得なかったです。ということで表面には出ないけど、先進国ではなんでもありということが現実のようです。

    売春で有名なタイ国では、一般庶民はそのような印象とはまったく反対の保守的な環境で育っています。自国のセックス産業の存在は知っていても、それらを激しく嫌悪しているのがよく分かります。ちょっと前には人身売買などでニュースになったタイですが、最近はバンコクで育った一般の女性までがセックス産業に簡単に入ってきているようです。連れ出しもできるクラブでホステスを指名したら大学卒業だったことがありますが、まだ3日という話を聞いて、セブンイレブンの売り子でもいいからこういう仕事から足を洗うように諭したものです。翌日から辞めると言ってましたが、どうなったでしょうか・・・

    イスラムの国々はセックスに関しては極めて保守的です。女性の髪の毛を隠すという行為からも窺えることでしょう。しかしセックス産業は一次欲求を満たすものですから、規制してもなくなるものではないようで、マレイシアでもイランでも夜道端に立つコールガールというものはいるものです。宗教警察が監視していても一向になくならないようです。外国人がうっかり手を出したりすると国外追放になってしまうので、私はそれ以上のことは分かりません。

    米国によって占領されたイラクではポルノショップが大流行というのはもう周知のことと思います。イラクの信仰心の厚い人たちでしょうか、それを嘆いて爆弾テロを行ったりしています。映画館も今ではポルノ映画ばかりという様子です。今まで禁じられていたものですから、しょうがないと言えばしょうがないのでしょうが、どうにも一次欲求は宗教よりも強いようですね。

    統制の厳しいイランですが、インターネットは妙なサイトへのアクセスは時々アクセス禁止などの介入が入りますが、そんなことをしてもサイトなんて次から次へと出てきますからほとんど意味がないでしょう。そういう意味ではイラン人は免疫というか抵抗力があるので、ポルノが解禁されたとしてもイラクのようなことにはならないと思っています。いいんだか、悪いんだか。

    インターネットのお陰で、ポルノ雑誌の会社が閉鎖になることろが出てきました。技術の進歩というのはいろいろな分野でも栄枯盛衰をもたらすものです。米国ではインターネットを使ってオフィスからポルノ・サイトにアクセスしている人の割合が高いということで問題になったりしています。新しい社会問題も起きているようです。
    October 18

    日本人の特殊性(27):和製英語

    和製英語ってのは多いですね、うっかりすると使ってしまいそうです。まず、典型的なものを挙げると、オフィス・レディ、ナイター、プリペイド・カード、バック・ミラー、ハンドル、ウインカー、ツー・ショット、ブラインド・タッチ、コンセント、イメージ・ダウン、シャッター・チャンス、スポーツマン、スキンシップ、(ホテルの)フロント、マザー・コンプレックス、ホチキス、キャッシュ・カード、ハイセンス、シャープ・ペン・・・などなど

    ゴルフ用語にもいろいろあって、外国人とのプレーの時はヒヤヒヤします。スリー・パット、ニアピン、ティー・グラウンド・・・などかな。「ナイス・ショット!」ってのもあまり使いませんね。「ビューティフル・ショット!」か「グッド・ショット!」が普通です。

    英語らしきものを組み合わせて新しく単語を作ってしまうのですから、日本人の応用性というのは大したものですね。英語というのも相当いい加減な言語なので、どんどん名詞を繋げて表現できてしまいますが、ラテン語系の言語ではそれができないので、とても面倒です。日本語の「の」に当たる助詞を全部につけなくてはならないのです。ドイツ人から聞いたのですが、「商談は英語で契約はフランス語で」という言い回しがあるそうです。つまり、ラテン語系の言語は表現が厳密だと言うことですね。

    私の知り合いの人が、ホチキスという人とゴルフを一緒にやったことがあると言っていました。ホチキスを開発したホチキスさんの末裔ということになるのでしょう。因みに、ベンジャミン・B・ホッチキスは機関銃の発明者で、弟のエーライ・H・ホッチキスがE・H・ホッチキス社を興したそうです。儲けたのは弟の方でしょうから、やっぱりエーライですね。(笑)

    英語で言いにくいのがセロテープかなぁ・・・粘着テープと言っても通じないし、スコッチ・テープって言っても怪しい感じです。バルセロナでバンドエイドを買おうとした時も単語が分からず、困ったものです。いろいろ説明しても通じないので、「バンドエイド」ってやけくそで言ったら通じたけど、なんでだろ?日本の商品名のような気がするのですが。(笑)

    子供が小さい頃、グアムに行った時、紙おむつを買うべくスーパーマーケットに入り、「パンパース」はないかどうか聞いたら全然通じませんでした。おかしいなぁと思っていると、「パンパース」の発音が悪かったようで、「パンプース」というように発音すれば通じたんです。英語の曖昧母音は日本人にはちょっと発音しにくいですね。「ガール」だし、「パーパス」だしなぁ・・・

    あ、和製英語の本当の表現を書かないといけないかな・・・ では少し調べてみましょう。

    オフィス・レディ・・・female office worker
    ナイター・・・・・・・・・night game
    プリペイド・カード・・ま、通じるかな(汗)
    バック・ミラー・・・・rearview mirror
    ハンドル・・・・・・・・steering wheel
    ウインカー・・・・・・blinkers かな winkersでも通じるかも
    ツー・ショット・・・・うーん・・・特に言い方ないでしょ
    ブラインド・タッチ・touch typing
    コンセント・・・・・・・AC outlet
    イメージ・ダウン・・image harming
    シャッター・チャンス・・・むむむ、これも特別にはないような
    スポーツマン・・・・athlete
    スキンシップ・・・・physical contact
    フロント・・・・・・・・reception
    マザコン・・・・・・・Oedipus complex
    ホチキス・・・・・・・stapler
    キャッシュ・カード・・ATM card でいいのでは
    ハイセンス・・・・・good taste
    シャープ・ペン・・mechanical pencil
    October 16

    日本人の特殊性(26):言葉の短縮

    日本人ほど言葉を短縮する人たちって他の国ではあまりみかけないですね。セクハラ(セクシャル・ハラスメント)、リストラ(リストラクチャリング)、ボディコン(ボディ・コンシャス)、ロリコン(ロリータ・コンプレックス)、チョベリグ(超ベリーグッド)、あけおめ(明けましておめでとうございます。)、パソコン(パーソナル・コンピュータ)・・・などなど。あっ、私も「エルダーマン」を短くして「えるだま」にしていました・・・(汗)

    もともと漢字の長い固有名詞はどんどん短縮して使っているので、この辺りから短縮への抵抗がなくなったのでしょうか。東関道(東関東自動車道路)、環八(環状八号線)、圏央道(首都圏中央道路)・・・などなど。鉄道の路線も都市の名前から作っていますね。京成電鉄(東京ー成田)、埼京線(埼玉ー東京)、東横線(東京ー横浜)・・・などなど。

    それから長嶋元監督じゃないけど、日本語で話をしているのにやたらと英単語が混じる人。英単語というよりも、カタカナ外来語ですね。非常に軽薄に響いて来ます。「よくリサーチをして、そのリザルトをイフェクティブに活用しないといけない。」・・・「よく調査して、その結果を有効に活用しないといけない。」でいいんですけどねぇ。

    国際的にも、長い英語の熟語をイニシャルにしてしまうことはよくあります。TORとかC/Pってのは一般の人には分からないイニシャルでしょう。世界的にもイニシャルでの省略はかなり多く見かけられます。国際連合をユナイテッド・ネイションと言う人はほとんどなく、みんなUN(ユーエヌ)ですし、ユーロピアン・ユニオンはEU(イーユー)として定着しています。

    また、完全に日本語になっている英語も多くありますね。これらは日本語に置き換えたら却って変です。コンピュータを電子計算機という人はまずいないでしょう。ウインドウズを窓って言う人や今でもCDをコンパクトディスクって呼んでいる人っているのかなぁ。エクセルを表計算ソフトって呼んでも面白そうですね。メディア・プレーヤーなんて日本語にできないかも・・・ 媒体演奏機かな。

    という訳で、日本語が相当乱れて来ているというのに、さらに意図的に一層乱している若者たち、なんとも困ったものです。若者言葉は仲間言葉として連帯感を表現するのに使用されているそうですが、コミュニケーションを阻害するということを意図的にやるのですから、どうにも逆行、反動としか受け止められないですね。この傾向は日本だけだと思います。

    日本語の語尾の変化については前に検討したことがありますが、非常に豊富なことに驚きました。それだけニュアンスに拘る国民性ということができるかも知れません。方言もかなり語尾に出ているようなので、語幹を保ちながら地方に合う形で定着したのかも知れません。

    英語でも実は言葉使いはかなり乱れているように思われます。古い映画をみると綺麗な英語の台詞が聞こえて来てほっとしたりします。本当らしさを追求するあまり、俗語での会話が氾濫して来たのでしょうか。テンポも速く、乱暴な表現も増えましたね、そういう時代なのでしょうか。どんな台詞の中にも「ファック」とか「ファッキン」とか入っていた映画を見たことがありますが、あれはどうにかならないものでしょうかね、もちろんマフィアの話でしたが・・・・

    日本語にはその上、隠語もあります。業界用語ともいいましょうか。知らないとさっぱり分からない言葉ですね。寿司屋の業界用語が元祖なのでしょうか。「がり」、「しゃり」、「げそ」、「あがり」、「むらさき」などですね。

    言語は文化そのものですから、日本人の特殊性とは言い切れませんが、日本語はもともと難しい言語だと思われるのに、これだけ乱れたら日本語を勉強したい外国人が困りそうです。実際、彼らの方が正しくて丁寧な表現を使いますね。親しみを込めて日常的な表現で答えると通じなかったりして、こちらが恥ずかしくなったりすることがあります。

    それにしても語学をやると、どうして最初に「私は○○です。○○から来ました。」なんて覚えるのでしょうかね。こんなことを聞かれたことは未だにありません。ましてや、「これはペンです。」なんてまったく無意味ですね。
    October 14

    日本人の特殊性(25):出る杭

    「出る杭は打たれる」、集団で仕事をする日本人の間では常識でしょうか。能力のある人間が能力を出せないとしたらそれは大きな損失なのですが、日本では能ある鷹は爪を隠さないといけないようです。人間の負の精神作用である「妬み」、「やっかみ」、「嫉み」なんて煩わしいものからは逃れたいものです。

    ところが日本でも「出る杭」以上のスタンドプレイを賞賛する環境はあります。スポーツ選手、タレント、ミュージシャン、アーティストたちですね。つまり完全に自分たちの世界から離れた存在とみなされればもう「出る杭」は打たれないと言えるでしょう。ですから仕事でも「出る杭」がいけないのではなくて、ちゃんと能力が発揮できるように、周囲から自分がそうみなされるようになればいいのです。要するに中途半端から抜けちゃえばいいんですよね。この辺りは日本人の面白い心の動きのような気がします。

    「出る杭」をやめるか、それとも出るかは、得意な分野であるかどうか、あるいは個人の問題でしょう。調和を主体にいい仕事をするのもいいし、縁の下の力持ちというのも大事な役割です。ここではどれがいいかという議論ではなくて、「出る杭」を認めるという日本人の心の動きを見つめてみたいと思います。

    みんな一緒である、同じであるという基本的な考え方が日本人同士の競争を生み、ある意味活性化をもたらしていると思います。TVのどこかのCMでも、「お隣より大きい」なんて言い回しがありました。みんな同じだという意識と、少しだけ勝りたいという日本人の微妙な心境を表したもののように思われます。

    組織では仕事のやる気を促すものとして人事管理があります。ポストに優劣をつけて同期の職員の競争心を刺激するやり方です。ポストにはそれぞれの役割があり、もともと優劣なんてないものですが、そこに序列をつけて昇格したと思わせる。巧妙な人事コントロールだと思います。なにしろ余分なお金を必要としないで職員のやる気を起こさせるのですからね。組織を作るときに番号などをつけて呼ぶと、やがてはその数字の順番にポストとしての上下が付けられてしまうようです。第一ってのが一番で、第二と付いているのは二番というように、まったく実際的な意味はないのですが、人事のマジックのタネにされてしまうようです。

    これらは自分たちがほぼ同じ能力であるという共通認識から来るものでしょう。そして、誰でも自尊心という心の作用によって自分はどこか少し優れているという気持ちがある。だから誰かが「出る杭」のような行為をするとそれは歓迎されない。「目立ちたがりめ」としかめっ面をされるかも知れません。そしてその行為が認められたりすると、「妬み」、「やっかみ」、「嫉み」の対象になる可能性が出てきます。多分心の底に、同じ能力なのに要領のいいやつだという批判が伴うからでしょう。

    「みっともなくないように」、「出過ぎて杭を打たれないように」などと日本人というのはいつでも周囲を気にして行動しているようです。そして完全に出過ぎてしまった人はそれはそれで認知される。なんとも複雑な国民性のような気がします。スポーツや芸術以外では、政治家ってのが出過ぎたい人の典型かも知れませんね。

    外国に出て仕事をすると、爪などは隠していられませんから、派手にとはいいませんが、それなりのパフォーマンスは必要になります。謙虚さも必要ですが、率直に自分の能力をみせて認知されないと仕事が始まりません。なにしろ評価されないことには人の心は動かせませんからね。私はできそうもないことをできると大見得切るのは大嫌いですから、どこまでやれるか分からないような場合にはちょっと苦しいですね。

    イラン人相手の場合は、かなり知的水準が高いので、大風呂敷などのスピーチはあまり効果がなく、個人の能力の方が評価されるようです。チームワーク、協調心がまるっきりない国民性ですから、必然的に個人の能力が注目されるのでしょう。イランでは「出ない杭」は捨てられるかな・・・ いや、これは世界中でそうだと思います。

    チームワークの日本人ですが、どこまで世界で通用するでしょうか。文化、習慣から来ているのでこれを他の国に移植することは至難の業に思えます。逆に言えば、それ故に日本はこれからも長く先進国でいられるかなぁ・・・ 

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    October 12

    日本人の特殊性(24):ディベート

    日本人の苦手なものとしてディベート(討論)があると思います。日本人の場合、議論に熱が入り過ぎるのか、感情が出て来てしまうのか、論争の果てに感情的「しこり」が残ってしまうのでしょう。政治の世界ではこれを避けるために裏工作が行われ首相候補が知らない間に絞られたりしています。肝心の国民にはどの議員がどういう主張を持っているのか分からないままにいつの間にか首相が決まっているということになりますね。

    お隣の韓国人はこのディベートは得意なようです。議論になるとかなり過激な論調で主張を繰り広げます。ところがその過激と思われる議論の後で、彼ら意外にケロリとしているのです。感情を引きずらないんですね。思う存分議論して、主張が通っても通らなくても、討論が終わればいつもの通りという感じです。これは慣れると案外気持ちのいいものです。

    日本人同士では「まあまあ」や「なあなあ」ということで、できるだけ感情の衝突を避けようとするので、結局争点や論点がはっきりしないままに結論が出されてしまう傾向が強いようです。円満解決を旨とする生活の知恵なのでしょうが、国際化、グローバリゼーションの中では分かりにくいものとなるし、日本以外のところでは通用しない方法とも言えるでしょう。

    一方日本でのTVなどで政治討論会が行われていますが、いつも思うのですが、出席議員は自分の主張をするだけでいつも一方通行ですね。これは明らかに討論ではなく主張会でしかないですね。進行役は視聴者にどのように映るかを想定しながら進行させているようですが、問題が起きるのはその場ではなくて、後日発言した内容が嘘として発覚するような場合に限られるようです。

    政治家の虚虚実実の駆け引きはTVで放映されない世界で行われているので国民に見えないのは当然ですが、果たしてこのような政治を繰り広げていていいのでしょうかねぇ。国会での質問だって、質問者から事前に内容が提出され、答弁書が事前に準備されるので、スムースな議事進行ができるので、決して八百長ではないのですが、野党の爆弾質問のようなものでもこのルールに則っているので、見ている方はなんだか白けてしまいます。

    与党側の答弁書の多くは官僚たちによって用意されます。これだから日本の政治家は怠慢だとも言われ、官僚に牛耳られたりするのでしょう。官僚批判をし、政治家による政治なんて騒いでいるけど、そもそもは自らの不勉強、怠慢が招いたことではないかと思えて仕方がありません。

    日本人の心の奥底には、現実世界では清濁併せ呑むということを肯定する気持ちがあるようです。衛生面では潔癖な日本人ですが、精神面では潔癖さを未熟さと同じように見做しているような価値観を感じます。民主主義の進んでいるヨーロッパの国々ではこの辺はかなり違うように思われます。政治の未熟さは、「暴力などの圧力で動く」、「お金の力で動く」の順らしいですが、日本も米国もどうやらまだ「お金で動く」の段階にいるようです。

    政治にはお金がかかると言われますが、ではそれをどうやって回収しているんでしょうね。損してまで政治家をやっている議員ってのはそうはいないのではないでしょうか。ディベートにより個々の政治家の主張が明瞭になるということがないから、世襲議員が登場するのだとも思えます。確かに政治家という親の影響はあるでしょうが、いったいどういう価値観でどういう主張を持った人かも分からずに当選していくものですね。まったく知らない人よりましというだけの選択基準だとすれば日本の政治は幼稚園レベルなのかも知れません。

    米国の大統領選挙の方法がベストかどうかは分かりませんが、候補者がそれぞれの主張をしてそれから候補者が絞られていくという姿は少なくとも日本よりは進んでいると思われます。もっともどこかの州知事選挙では有名なアクション俳優が当選したりしているので、米国の選挙というのもいろいろ問題がありそうです。

    今、学校教育の中でディベートを取り入れようとしているようです。これから若い世代の人々が堂々と主義主張を繰り広げられるようになるといいと思います。明治時代の文壇、歌壇では文芸批判が活発だったのですが、そういう文化はどこへ行ったのでしょうかねぇ。

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    October 10

    日本人の特殊性(23):自己主張

    日本人というのはなかなか自己主張しない国民性を持っていると思いますね。特にみんなが初対面だと誤解を招くのを怖がるのか、まずは様子見というのが習性なのか、各自の意見は誰かに促されないと表明しないようです。最初のこの気まずい時間ってのは私にはたまらなく苦痛に感じられます。時間の浪費とも思いながら、それでも参加者の顔色を覗っている自分も日本人そのものですけどね。

    日本人社会の中で、日本人が自分の意見を言わないか、自己主張をしないか、というとそうではないのです。ただなんと言うか、日本人社会の中では、意見を言える人間と、言っても聞いてもらえない人間ができて来ちゃうということがあるようです。日本の会議では、まず一番偉い人は聞き手に回りますね。そして意見や提案を述べる部下がいる。一番偉い人の決定は最終決定ですから、結論が出れば会議はお仕舞いということになります。

    面白いのは、担当が決まっていないときなどのオープンな会議の場合、日本人同士の場合、発言の内容よりも誰が発言したかというところに力点が置かれているように思われます。これは多分言葉による表現力に限界があるということを承知しているところから来るのではないかと思います。不言実行という諺もあるように、日本人社会では理路整然とした立派なことを言ってもあまり評価にはつながらないようです。では何が重要かと言うと、それは発言者の人となりということになるでしょうか。

    不思議なもので、何回か同じメンバーで会議をやっていると、メンバーの発言に軽重が生じてくるようです。「彼はいったい何者なんだ?」、「あんなこと言っているけど?」、「へぇ、切れ者なのか。」、「いつもああいうことを言っているのか。」、「でかい態度だけど何者なんだ?」・・・などなど、ひそひそですね。

    ですから、会議の出席者で自分の支持者がいたりすると雰囲気は大きく変わります。支持者と言っても特別何をする訳でもないのですが、自分の話を好意的に聞いているという雰囲気は不思議と伝わるもので、それが会議の雰囲気まで支配するようになります。話し方が上手いかどうかというのはあまり関係がないようです。日本の場合、むしろ雄弁な方が信用という点では不利なようです。

    自分の担当範囲のことだけしか言わない人もいれば、他人の分野にまで興味を持って聞いている人もいます。会議をまとめる事務局は、賢くないといけないですね。エキセントリックな意見に振り回されてもいけないし、重要で有用な意見を軽視してはいけません。これはどんな会議でも重要なことで、事務局というのは権限の強いものです。普段は会議場の雑用ばかりしているように見えますが、しかしてその実態は権限に裏づけされたものだったりします。

    事務局というのは自己主張を直接する立場にはあまりないものですが、実は会議全体をコントロールしているという性格を持っています。信頼されていない事務局では議事進行がスムースにいかないことは自明なことでしょう。ではその信頼はどこから来るかというと、会議の席上ではないのですね。裏技とは言いませんが、会議じゃないときの交渉、付き合い、人間関係から来ることが多いと思います。そして、その延長として5時から男が現れてくる。

    「5時から男」ってのは海外ではまず見ないですね。5時からの世界で、本音を吐き出して、調整をする。会議ではその本音は暗黙の了解事項ということであっさり片付けられる。いかにも日本的でしょう。会議の席で参加者はその臭いを嗅ぎ取る神経も必要になるでしょう。知っていてちくちくやる人もいますけどね。議事録をとっても行間まではなかなか読めないものです。

    このように日本人の自己主張や意見を述べる行為というのは、日本人特有とも言えるような非常に複雑怪奇な過程を含んでいます。このような日本人が国際会議に出席してどこまで渡り合えるか大いに疑問に思われます。日本の意見を表明するだけならいいのですが、審議したり、あるいは事務局をやったりしたら、日本特有のものは一切通じなくなってしまいます。

    中国人や韓国人には通じる部分がありますが、東アジアを離れたら日本人流ってのはまったく通用しないでしょうね。それほど世界の各国の代表者というのは自己主張、意見の開陳には慣れています。イラン人代表に至っては何回目の会議であっても白紙から意見を述べたりするメンバーがいたりして困りますけどね。

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    October 09

    日本人の特殊性(22):信用

    日本人は信用をとても大事にする国民だと思います。根っから正直というよりも信用を失いたくないという動機から正直であるのだと思っています。それを知っているのかイラン人は代金は後でいいからと高価な絨毯を日本人観光客に売り付けます。気に入らなければ返品してくれればいいとまで言われて、日本に高価な絨毯を持って帰ったという例を多く聞きます。それでも代金の回収をし損なったという話を聞いたことがありません。返品をしたという話を聞いたことがありますが、それにしても買おうとした日本人が送料を負担して返品しているのですから正直なものです。イラン人でも日本人以外にはこの商法を適用することはないと思います。このように、日本人の国際的な信用というのは大変強いものだと言えると思います。

    「武士に二言はない。」というのも信用に関わるものだし、「ユダヤ人の言葉は契約書よりも重たい」などとユダヤ人の大家さんに言われたことがあります。英語でも「keep word」という表現があります。世界的に信用というものは大事なのですが、日本人がいかに信用を重んじているということを理解するために反対の例を紹介しましょう。

    中近東のこの地域の人々はまったく他人を信用しない姿勢を持っています。それがどこから発生したものかは諸説ありますが、実際問題としてそうなのです。だから結果として物事がなかなかスムースに進行しない。物事を他人に頼むときに、イランでは何人にも頼んでいいとされています。日本では誰かに物事を頼んだら、その結果を得ない限りは、他の人に頼むということはできないし、やってはいけないこととして考えられています。では同時に何人にも同じことを依頼できるということはどういう意味なのでしょうか。

    これは頼まれた人間にそれを実行するかしないかという決断権が保留されているからだと思います。日本人の場合、頼まれた人が、引き受けてそれがなかなか実行できないと、実行がまるで義務のようになって来ます。約束の不履行という性格を帯びてくるのですね。もともと自由意志で引き受けたのですからそこまで義務になるのはおかしいと思うのですが、日本では現実問題としては完全に義務のような性格に変わってしまいますね。

    イラン人の場合は、頼まれた方も頼んだ方もその最初の関係がいつまでも保たれ、頼まれ事を引き受けた方は引き続きそれを実行するかしないかの最終判断の権利を保有しているようです。つまり、気が向かなければやらないという訳です。ですから頼む人は何人に同じことを頼んでも問題は起きないという理屈になります。悪く言えば誰も当てにならないとも言えます。

    イラン人に「例の頼んだ物はいったいいつ手に入るのか?」などと聞いてもどうせ返って来る言葉は決まっています。「インシャアッラー」(神の御心次第)ですね。頼まれたイラン人は、ちゃんと依頼どおりに行動してくれたとしても、最終的なところまでは責任は感じないものです。手配したけどそのものが実際に届くというのはさらに誰かが介在する訳で、もうそこまでは自分の責任ではないとはっきりと割り切っているようです。日本人の場合は、ちゃんと物が届くまで依頼を引き受けた人間はヒヤヒヤしたりするものですけどね。

    頼まれたことを引き受けても、必ずしもそのようにするとは限らない。日本では信用問題になってしまいそうなことですが、カルチャーが違います。そもそも好意で引き受けたのだから義務が生じる訳がないという考え方も一理あるような気がします。しかし、これだと会議などをやっていろいろ決めても、会議が終わってそれぞれの職場に戻ったら気が変わって、「やっぱり止ーめた。」ということになりそうです。

    イランでは警察など役人の持つ権限はかなり個人個人にあり、同じケースの扱いが担当者によって違ってもまったく意に介していません。これも信用の失墜に繋がる行為なのですが、当地ではまったく問題にされていません。そういうものだと完全に習慣として染み付いているようです。

    こういうイラン人を相手に取引をしている日本の商社の方々は大変だろうと思います。歴史的にペルシャ商人というのは有名ですが、現在の組織として動く国際取引には向いているようには思えません。政治もそうですがこういう面もイラン国の衰退の一因ではないかと思います。仲間を信用しないで組織的に仕事をこなせないようでは大きな発展は望めないと思います。

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    October 08

    日本人の特殊性(21):派閥

    芥川賞を受賞した19歳の錦矢りさ著の「蹴りたい背中」を読んだところです。読書後に感想文でも書いてやろうかと思っていたのですが、どうにもその気にはなれないようです。若過ぎる作家の作品のせいでしょうか。ところがちょっと角度を変えて作品のテーマをみるとこのシリーズのテーマに近いものがあります。

    主人公は早熟のせいか頭が良いせいか、同級生のなかに素直に入っていけない苦しみが描かれています。日本人の特殊性とも言える強い仲間意識、連帯感、そしてそれが派閥にもなっていく。仲間になれない人は仲間外れということになり、冷たい視線を浴びる。そんな実社会にも存在するような仲間意識が高校生活の中でも演じられている。

    主人公は仲間でいるための努力もくだらないと思い、先生ですら生徒の受け狙いの行動をとるというようなことまで見透かしてしまう。子供だから、高校生だから仲間を作っているというよりも、この構図は大人の社会の縮図のようにも思われます。作者がそこまで意識して書いているかどうかは分かりませんが、一人称で書かれた描写にはかなり鋭いものがありました。

    これが日本人特有の仲間意識、連帯感、協調心の強要という世界からの脱却の芽生えということであれば、文部省が近年打ち出してきている「個性を伸ばす」という教育方針が生きて来ているのかも知れません。作品に感動し、同調する中学生、高校生に大きな影響を与える作品という気がします。

    日本人は徒党を組み易い国民だと言えると思います。自己主張よりグループとしての発言力の強化を図り、そこで自分の意見を反映させていくという戦略が自然と発達したのかも知れないし、寄らば大樹という安心感のためという消極的な動機もあるかも知れません。ともあれグループの長はグループの代表ということで評価され、発言力を持つようになります。日本人の感性として、人物よりもその人の肩書きがモノを言いますね。その人がどういう人物なのかというよりも、何人の代表なのかというのが発言力の物差しと言えるでしょう。

    中東のアラブ人やイラン人は、日本人とはまったく反対で、仲間を組織して行動するというセンス、協調心にまったく欠けています。こちらの人から日本人をみたらとても奇妙に見えるはずです。個人より組織が優先するような心の働きはまず理解されないものでしょう。

    そもそも最初から妙な仲間意識、派閥意識がなければ、仲間外れも、それによるイジメも発生しないかも知れません。単なる弱いものイジメはどこの国にでもあるでしょうが、日本の場合は仲間外れとしてもっと陰湿に現れているような気がします。

    そう言えば、私も小学生の頃、協調心がないと指摘されたことがあり、不満を感じたことがあります。子供ですからそれは多分一生懸命に清掃作業をやればいいという話なのかと解釈してしていました。自分の意見を言うことのどこが悪いのかという精神はいまでも変わっていませんけどね。この精神で担任の先生に協調心がないと言われるなら、今では逆に文句を言ってやりたい気分です。

    そういう精神ですから、私の子供頃には仲間意識を持つということはあまりありませんでした。自分が輪の中なのか外なのか、そんなことは無頓着でした。しかし、働いてからは事情は変わりました。仕事では情報が大事だし、しかも良質な情報を必要とします。そして、効率的な業務の遂行という意味においても派閥の意味を認識するようになったのです。もちろんイジメのための派閥ではありませんが、中に入れない人たちというのは、複雑な心境でいたことでしょう。

    日本では普通飲み会というとどういう人の集まりなのかを明確にする配慮をします。そうでないと誰かからどうして自分が呼ばれないのかといういちゃもんが付けられ問題が起きるからです。ところが私の意図した飲み会では敢えて派閥に名称を与えず、メンバーリストも作りませんでした。恣意的にメンバーを選んで声を掛けるという恐ろしいものです。日本的な妙な配慮はしないという意思の表れと言えるでしょうか。

    私が直接メンバーに声を掛けていた訳ではないのですが、強面(?)の私のところに文句を言ってくる人は最初から最後まで一人もいませんでした。ということで私が日本で現役当時は派閥の幹事長のような役目をしていたことは否定できません。表面的には気まぐれな飲み会なんですが、部全体を巻き込む大きなグループになりました。

    飲み会ですから、アホな上司の悪口や人事の話など、酒の肴にはことを欠きませんでした。欠席すると悪口を言われると冗談を言うメンバーもいました。サラリーマンの典型的な飲み会の姿でしょうか。それでも、たまには真面目に環境行政がどうあるべきかも論じたものです。

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    October 07

    日本人の特殊性(20):泣く

    日本人の男性はなかなか泣かないものです。武士道の影響でしょうか、そのように教育されてきたのですね。男なら泣くんじゃない・・・泣くことがまるで卑しい行為のように教育されてしまったとも言えるでしょうか。その点、日本女性にはそういう教育はあまりなされないようで、比較的自由に涙とともに感情を表せるようです。

    家内がそれほどの出来でもないTVドラマをみて、ぽろぽろ涙を流しているのを脇目で見ながら、男子たるものこの程度のことで涙してなるものかと、この監督はここでお涙頂戴の演出をしているに違いないなどと気を紛らわすことばかり考えるようになります。この対照的な感情の発露は性による差でなくて、教育あるいは躾のせいであると気がつくのには海外で生活をして外国人の感情の表れ方を観察する必要がありました。

    イラン人はあまり喜怒哀楽の感情表現の抑制をしないようです。もちろん日替わりの態度は好ましいものではないので、男性としてはその日の気分やむら気は家族以外に表さないという努力はしているようです。しかし、本当に悲しいことや気がかりなことがあると、素直に表情に出すのは平気なようです。

    イスラム教シーア派の妙なパレードをTVでご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、手やチェーンで胸を叩きながら号泣して歩くという姿が見られます。聖人(エマーム)として崇められている宗教指導者の殉職を悲しんでの感情表現なのですが、1000年も前に死んでしまった人ですから、どうしてそこまで悲しめるのか我々には不思議な気がします。もっとも行進で泣いているのはその道のプロであると聞いたことがあります。ま、そんなものなのでしょう。

    親族を喪っておいおい泣く男性、失恋してぽろぽろ泣く男性、日本人の感覚からはみっともないという感じがありますが、ではどうしてそのような感情表現をしていけないのかという理由を考えるとつまりは国民性というような曖昧な文化、教育、躾のせいであるということに気がつきます。

    女心は秋の空などと、女性には生理的な原因があるでしょうからどこの国でも寛大に扱われます。それで、女性は政治には向かない、特に外交には向かないなどと本気で唱えている人があるようです。血の上りやすい男性が向いているという気もしませんから、この辺りは一人一人の個性に依存するというのがまとものような気がします。

    感情をあまり表さない日本人というのは、外国人からみると一種不気味な雰囲気があるのかも知れません。前にも書いたように、肌の触れ合いという行為は日本人の日常生活や挨拶の習慣にないし、そこへ持ってきて感情表現をせず、いつも意味不明の微笑をしているか、もう一つの典型的日本人のパターンでいつも難しい顔をしているというのもありますが、どちらにしても親しみやすい人間というのにはほど遠い感じがします。

    それでも外国に長いこと出ている日本人は表現が次第に大げさになって来ているのを認めることがあります。やはり外国人と接触していると無表情ではいい交友関係が持てないと自覚しているのでしょう。私も11年と海外での生活が長くなりましたが、少しずつの変化をしているのでしょうか、自分では気がつかないことが多いと思います。日本に帰って自分の動作や表情で友人に変な顔でもされたら注意しないといけませんね。

    私はどちらからというと、外国人に合わせた大げさな態度をとるのは好みません。無理して振舞っても所詮、自分は自分。どこの国にいても自分の持てるものだけで対人関係を作っていきたいと考えています。日本人特有のものは目立たないようにするという努力はしています。

    泣いてすっきりするという話を女性から聞くことがありますが、こういうのは残念ながらさっぱり分かりません。泣いたって何も状況は変わらないだろうにってのが、家内には割り切り過ぎると映るようです。ある日、家内に聞いたことがあります。「どうして死んだ人を悲しむの?」、「可哀相だから」、「可哀相って死んじゃった人にはそんなの分からないんじゃないの?」、「・・・・」

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    October 06

    日本人の特殊性(19):笑い

    それぞれの国にはそれぞれの国の笑いがありますが、その笑いの対象はその国の文化水準に関係しているような気がします。文化水準が低いと笑いの内容は侮蔑、蔑視、嘲りというようなものが多数含まれているように思われます。教育や倫理観で抑制されるならば、そういう内容でも可笑しいという感覚が残りますが、日本人にはもはやそういう内容を可笑しいとは思えない感性が働いていると思います。

    もう忘れてしまいましたが、英国人がアイルランド人を馬鹿にしたジョークをたくさん聞いたことがあります。また、イランではトルコ人を馬鹿にしたジョークが多くあります。日本でも40年以上前はお隣の国の人々を見下した冗談が結構あったように記憶しています。

    南米、ベネズエラでは住み込みの家政婦がTVのドタバタ・コメディで大声を出して笑っていたのを懐かしく思い出します。その笑い声が私のいるところまで聞こえてくるのですから、驚きもしたし、こちらまで可笑しくなったりしたものです。

    この状況は、日本の40年くらい前に似ているでしょうか。「てなもんや三度笠」、「三バカ大将」などが人気だった頃ですね。私はまだ中学生くらいだったと思いますが、「三バカ大将」を初めて見たときに本当に可笑しくて転げまわって笑ったものです。完璧なドタバタ・コメディでしたがその徹底したバカバカしさに笑わされてしまいました。ところが、これを最近の再放送で見ても少しも可笑しくなんですね・・・ 知っているせいか、もう可笑しいとは思えないのか、年をとったのか・・・

    現代の日本の文化水準が高いかどうかということには少し疑問がありますが、笑いの文化は少し水準が高いかもしれないと思っています。日本のドタバタの絶頂期は、コント55号だったでしょうか。激しいアクションで当時としては新鮮に見えたものでした。でも、当時あるいはその前には「大人のマンガ」というような成熟したユーモアを提供してくれる番組もありました。青島幸男の脚本でしたが、政治家にならないでこちらの方面で活躍してくれていたらもっと楽しかったのになぁ・・・なんて思ってしまいます。

    その後日本では、「ビートたけし」の毒舌が受けたり、「8時だよ全員集合」がPTAの顰蹙を買ったししていました。そして、漫才ブームかな・・・ 掛け合いの面白さを味あわせてくれました。変わらないのが落語系の笑いでしょうか、唯一江戸時代の雰囲気を残している文化のように思えます。「笑点」はロングライフの番組ですが、出演している落語家のキャラクターが万人向けに用意されていて笑いの性格を考えさせられるものです。本当にアホじゃないかと思わせるボケ役の木久蔵がもたらす素朴な笑いにはほのぼのさせられます。

    駄洒落は昔からありますが、機を得たバカバカしいものには大笑いできますね。凝った駄洒落というのは受けが悪いとしたものでしょう。駄洒落は考えて作ってもしょうがないと思っています。自然に噴き出せるタイミングが命でしょうね。若い人が「おやじギャグ」と冷ややかな反応を示したりしますが、それは本当の「おやじ」がつまらないものを連発するから、その反発じゃないでしょうか。

    大分、日本の笑いの回想をしてしまいましたが、現代の日本の笑いには自虐的なものが現れて来たように思われます。笑いの対象が自分自身というのはある意味高級なのかも知れません。あるいは末期症状かも知れませんけど・・・(笑) 外国では、この手の笑いは相当の言語能力が必要なので、残念ながら私の言語能力程度では感じることが出来ません。

    ところで、寄席でもそうなのですが、TVで放映されない世界として下ネタがあります。これはどうしても笑いを誘い、受けがいい。お客さんが笑わなければ下ネタをやればいいというくらいな感じがあります。ただ、下ネタでは品がないし、後味が悪いしで決して高級な笑いとは言えないでしょう。

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    October 05

    日本人の特殊性(18):ツアー

    今回は一般的な観光ツアーをみてみましょう。今や日本人の海外旅行は一般的になってきているので、冒険旅行を楽しむグループ(なぜか年長者が多い。)もいるし、個人旅行を楽しむ人たち(若者が多い。)も現れてきています。

    海外旅行ツアーというのは、すべてがアレンジされているし、内容の割には料金も安く設定されているので言葉の通じない外国旅行には最適のアレンジと言えるでしょう。どこに行くにも全部ガイド付きで、参加して解散するまで心配することは何もありません。その分自由時間がなくなるのはしょうがないことだと思います。

    世界の観光地でさまざまな国からの観光ツアー客をみているといろいろと面白く観察することができます。ちょっと前の日本人観光ツアーと非常によく似た行為をしているのが韓国人グループです。本当にびっくりするほどやっていることが酷似しています。どたどたとやって来たかと思えばあっと言う間に去っていく。

    最近の傾向として見られるのが、中国本土からの海外旅行ツアー客です。ちょっと前までは台湾からのグループが普通だったのですが、今はすっかり様変わりのようです。上海あたりのお金持ちでしょうか、中国本土の景気の良さが窺われます。顔つきではほとんど区別ができないこともあり、韓国人は日本人グループかと思ったりしますが、中国人グループはすぐに違いに気がつきますね。ファッションのせいでしょうか・・・

    観光ツアーはもちろんアジア人だけではありません。よく見かけるのはドイツ人と米国人観光ツアー客でしょうか。日本人観光ツアーと同じようなコースを巡っているはずですが、あまり遭遇することはありません。一つの理由としては朝のスタート時間が違うのではないでしょうか。

    日本人はいつも忙しく行動し、休暇の観光でしょうに、朝は早いですね。それともう一つの理由と言うか、原因でしょうか、夜の過ごし方が関係しているものとも思えます。西欧人の夕食は早くても9時頃からですから、ホテルに戻って寝る頃には12時を回ってしまうでしょう。日本人の夕食はだいたい7-8時くらいですから、生活時間帯の差に原因があるのかも知れません。

    以前バルセロナに行ったときもそうでした。美術館のオープンが午前10時が普通なので、その前に開いている公園に朝一番でざわざわやって来たのは日本人観光ツアーグループでした。しかも何組もがやってきたのです。そのすべてが日本人でした。その時間に公園にいたのは犬の散歩をしたり、ジョギングをしている地元のスペイン人だけでした。え?私はなんでそこにいたかって?私の場合は、まだイランとの時差の影響が残っていたようで早起きしてしまったのです。

    アジアの観光地では目立ちませんが、ヨーロッパ、中南米では日本人の早い夕食は目立ちます。レストランが開くのがそもそも8時頃ですから、待っていて一番乗りするのは日本人グループです。ですから、まだお客さんが誰もいないということになります。

    昔のヨーロッパ観光ツアーでは、日本人グループはレストランの隅の席に追いやられると言われたものです。私が始めてヨーロッパに行った時もそうでした。食事の際の日本人の出す音が嫌われている最大の原因ではないと思っています。

    ツアーを見ていて感心するのはドイツ人ツアー客です。彼らは徹底した合理主義で、経済的に海外旅行を楽しんでいるように見えます。まず、彼らの姿を5つ星ホテルで見かけることがない・・・多分、どっかシャレーのようなところか小じんまりしたホテルに宿泊しているのだと思います。

    その延長として、タイのプーケットで見られるような白人村みたいのが開発されるのでしょう。ここの場合は1か月に及ぶような長期滞在が前提なので、ホテルなどに多額を払う訳にはいきませんね。プーケットの5つ星ホテルに団体で宿泊しているのは大体日本人か韓国人じゃないかなぁ。

    日本人は決して臆病ではないのでしょうが、海外旅行の場合一番気にしているのが治安のようです。本人が注意していればいいだけなのですが、いいホテルに泊めたい旅行代理店の陰謀かも知れません。それでその結果として多くの日本人団体客が5つ星ホテルに宿泊するようになったものと思います。

    ガイドブックもその陰謀に加担しているようです。どこそこの地区は治安が悪いので足を踏み入れないようにとか注意書きがあったりします。確かに日本人の身の安全を考えての注意書きでしょうが、そういう場所には結構楽しいところがあって、そこで遊ばれたりすると現地の旅行代理店の用意するオプショナル・ツアーの客が減ってしまうからだとも思えます。日本人は早く寝かせて、朝早くから観光地を案内すればいいというようなものでしょう。

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    October 04

    日本人の特殊性(17):暗算

    今はスーパーマーケットでもどこでも買い物をした値段とお釣りが表示されるようになっていますが、その表示装置ができる前は日本では暗算で引き算をし、お釣りをもらったものです。外国では、買ったものの合計にお釣りを加えていって、差し出したお札と同額にするという方法が普通です。

    日本人が暗算に強いということも背景にはあったでしょうが、思考方法にも原因があるように思えます。お釣りは出したお金から買い物分を差し引いたものという概念が強いように思えます。ですから、素直に引き算をするという具合でしょうか。引き算の暗算は単純ではないので、日本人は小さいうちから暗算の訓練をしたのでしょう。

    もっとも最近は簡単な計算でも、「電卓はどこ?」ときょろきょろ探す光景は一般化していますね。それだけ電卓が一般的になりどこにでも転がっている代物になったようです。私の仕事上では、電卓の普及と数字に対する直感の欠如というのは少し気になるものです。私は物理屋なので答えのだいたいの大きさを事前に予想するという習慣がついています。今ではもう見かけない計算尺の経験でしょうか、計算尺では答えの桁は自分の頭で管理しなければいけない道具なのです。

    数値に関する直感というのは、さまざまな資料に出てくる数値の信頼性に関係していまして、発展途上国にいて政府などから提供される資料をよく見ていると信じられないような数字が登場していることもしばしばなのです。数値の大きさに対してまったく感覚が働いていないから、とんでもない数字が一人歩きしているようです。計算間違い、引用間違い、単位の間違いに気がつかないままなんです。

    私の仕事の関係では、本当らしい測定結果を知らないから判断できずに信じられないような数値がそのまま生かされているというケースもあります。「ppm」という百万分の1というような世界の話ですから、単位を間違えてもしょうがないとも言えるでしょうが、でも、小さいとは言えその濃度で人間の健康に影響があったりするのですから、軽視できる話ではありません。

    暗算のエピソードとしてマレイシアにいたときのものがあります。詳細は忘れてしまいましたが確か面積に使っている単位がはじめてのものだったので、マレイシア人に聞こうとしていたのです。知っているというオフィサーを探し当てて聞くと、彼はとても親切な人で、長さの単位がこれこれで、メートルではこの長さというように丁寧に説明してくれたのです。で、私が「ならばこの面積はこれこれ平方メートルになりますね。」と言ったら、彼は無反応で、説明を続けているのです。そっか、まだ何かあるのかと5分くらい説明を聞いていると、親切にも彼自身が平方メートルの数字を計算しようとしているのでした。もちろん、5分後に出た結果は私がすでに表明していた数字と同じなのですが、彼の頭には残っていなかったようです。

    外国で特に発展途上国で怖いことは、優秀そうな技術者に対して暗算の質問をすることです。その結果は信じられないくらいできないと聞いています。外国で親しくなった友人にはこの手の質問はしないようにしています、電卓を探せば済むことですから・・・ そんなところで妙にがっかりしたくないですからね。

    ところで、イランの通貨の単位はリアルと言って、10,000リアルが120円程度です。数字の桁が大きいので未だに数字だけをみても即座に物価に換算できないで困っています。実は問題は数字の大きさだけではなくて、一般に使われている単位がもうひとつあることも原因しています。10,000リアルを1000トマンと表現します。

    だから外国人の私は買い物の都度どっちの単位か確認しなければならないし、数字の桁も多いしで今でも一旦米ドルに換算して物価を感じるようにしています。これでも1ドルが8,900リアルなので暗算では難しいところです。百万リアル、百万トマン・・・ 未だにその大きさがピンと来ません。だいたい110ドルと1,100ドルくらいなのでしょう。日本の円も世界の中では数字の大きな通貨ですが、せめてそれと同様か以下が望ましいですね。イタリアのリラがユーロになって本当によかった。

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